目指すのは平気で生きること
「死の恐怖」がやってきた!
3ヶ月ほど前、突然に「死の恐怖」が私を襲った。
それから今に至るまで、その観念から逃れられていない。
こうなったらむしろ、とことん向き合おうとも思っている。
生まれてきたのだから、必ず死ぬ。
”決して逃れることは出来ない” と考えてしまうとゾーっと恐ろしくてたまらない。
多くの人が幼少期に「なぜ人は死ぬの?」と疑問を持ったのではないだろうか。
そんな私も、初めて死の恐怖を抱いたのは9歳か10歳くらいの頃。
「人って必ず死ぬんだよな…息がとまってしまうんだ」って想像し怯えて、時には短い悲鳴をあげたこともある。そうそう、息を止める練習をした覚えもある。死を連想される数字や語呂合わせを避けたりもした。
20歳になったら考えよう。
そんな日々が繰り返されたのだけど、どのくらい続いたのかは覚えていない。
そんな小学生時代のある日の夕方、数人の友達と自転車に乗って遊んでたときのこの瞬間を今でも覚えている。
「死のことは20歳になってから考えよう」、そう決めた。
両親や友達に相談することも出来ずに思い悩んでいた幼い自分がだした解決方法だ。
20歳になる頃には、就職活動やサークル活動をしたり恋愛や失恋などで大忙しで「死」のことを思い出すことはなくなっていた。
ましてや社会人になってからは日々新しいことの連続で刺激的な毎日に忙殺されていたし、自分のやりたい事探しに夢中になっていた。
「死」は自分から遠い遠い彼方にあって「生」のことで一杯に満たされていた。
「死」は自分自身のものではなくて・・
社会人になっていた20代前半に不安神経症と診断されたことがある。
小学生の頃にお預けにしていた「死」の問題よりも「生」の問題の方が上回っていたのはこの頃。将来への希望とそれに矛盾する現実からくる不安にどう対処したら良いのか術がわからなかったのだ。
30代は仕事に一生懸命だったり結婚したり離婚したりと苦しい時期だったものの、「死」は 自分のもではなく、葬儀に参列したときや知人から聞く”別の人のもの" だった。
40代になり、限りなく身近な存在の死を体験した。長年生活を共にした愛猫の死。そして、父親の死。この40代に体験した大きな存在の死はまたいつか書きましょう。
闘病する姿を目の当たりにし、為す術もなく失った。その大きな喪失のあとは何も考えることなく自堕落な生活を過ごしてしまった。
気づいたら50歳になっていた!
そして昨年、50歳の誕生日を迎えたわけだけど無性に ”50歳” という響きが嫌いである。
49歳から50歳では1年の違いだけなのに、どうしてこれほど憎悪してしまうのだろう。
マスメディアによるイメージ戦略に染まりきっているのかもしれない。ここら辺については色々と思うこともあるので、また書いていきたいなと思っている。
まだまだ50歳と捉えられたら良いのだろうけど、私は「もう50歳になってしまった ...‼︎ 」と絶望感が勝ってしまう。
充分に大人である年齢に達した自分にとって、"死を恐怖する50歳の自分" は受け入れたくないものだ。何故いま突然に「いつか必ず死ぬという恐怖感」にとらわれてしまったのだろう。
精神的な幼稚さ、利己的な思考、思うように生きてこなかったツケ…それらが大きいのかもしれない。
いい人生だったと思えるように!
"決して逃れることは出来ない" という認識が最大の恐怖に思うと冒頭に書いたけど、永遠に生きたいわけでもない。「永遠に生きることもできるし死ぬこともできる、好きな方を選べますよ」みたいに、自分に選択権があったらどんなに安らかだろうと思ってしまう。
こんなことを言っても仕方ないのだけど、ようは強制されるのが嫌だからこその思考なのかもしれない。
みずから、「あ〜もう充分いろんなことやった。そろそろ死んでもよいわ。」なんて思えたら人生最高じゃないか。
「いい人生だった!って満足して死ねるために生きよう。」なんて本気で思えたら、それだけで幸せだと、信じている。
現にそういう人々もいるみたいだから、私もそうなれる可能性はあるのかしら。
「平気で生きていく」
それが死の恐怖にとらわれない最良の方法かもしれません。