これがミドルライフ・クライシスか!
人生の転換期、中年期特有の心理的な危機
今私がおちいってる状態ってまさにこの中年の危機と呼ばれるものなのだと気づいた。世の中の50代はどんな様子で過ごしてるのだろうと検索しているところにヒットした「中年の危機」。
Wikipediaによると30代後半から40代にかけて、また現役引退後に訪れやすいようだ。
私の場合はどうだろう。
30代後半から40代にかけては、離婚したり初めての手術を受けたりと危機的状況に陥りやすかったものの父の闘病期とも重なっていたため、自分の人生そのものに思いを馳せるというよりは親の心配へとエネルギーが費やされていた。恥ずかしながら私は長いこと離職しているので現役引退後の燃え尽き症候群とも違う。
変わったことといえば、昨年、母が初期の認知症と診断されたことだ。
それはとても大きくて重たいインパクトだった。事実を受け入れがたくて、常に重たい影が私の心を覆ってしまった。
そんな中、漠然と抱えていた不安がむくむくと具体的に身に迫ってきたのだと思う。
年老いていくことにプラスして認知症の症状までついてくるなんて…"母が80代である"という世界は未知過ぎて怖気付いてしまったのだ。
親の介護が現実化して不安は高まった。私の人生はどうなってしまうのだろう?
どうやって乗り越える?
人生の後半を意識せずには過ごせない年代だからこそ思い詰めてしまう。
「まだ今なら何とかなる」「これを逃したら先がない」…そんな焦りに潰されそうになる。
だけど、どんな状況下でも冷静でいられる強さを身に付けたい。どう乗り越えたら良いのか今後もじっくりと取り組んでいかなくては。もう後悔したくない!
自分に言い聞かせていることは、「他人と比べないこと」そして「孤独から無理やり逃げようとしないこと」だ。
目の前のことをひとつひとつ
無職の私はどうやって収入を得るか、それが最初の壁になっている。
反復性うつ症状と診断され離職してから10年以上の時が流れている。10年以上のブランクがあって特別なスキルは持たず寛解にも届いていない私が再就職するのは困難な道だ。
今までの働き方はもう無理だし希望してないのだから、新しい働き方を模索するしかない。
仕事をしてない状態は社会からの断絶感が半端なく大きい。
少しずつしか働けないだろうし、それもすぐに開始は出来ないと思うけど、とにかく諦めないことだと思ってる。
働くことが好きだったので、いつかまた仕事したいと夢見ている。実際に働くと休みたいと思うのかもしれないけど、あまりにも長く離職してるとさすがに働きたいのだ。
体力が低下している年代だから働いていた当時よりもはるかに疲れやすくなってるのだろう。ただでさえ体力を使わない生活をしてきた分、体も鍛えていかなくてはと思う。
目の前に立ちはだかる山はとても高いけど、一歩一歩進んでゆくしかない。
不安は敢えてよく見つめるのがいい
死を直視すると、死を恐れなくなる
相変わらず「死」に関することだけを検索し続けているのだけど、ときどき少し気持ちが和らぐ記事に出会うことがある。
こちらもそのひとつで『Dress』というウェブマガジンから。
医師であり小説家でもある久坂部羊さんが、多くの死を看てきた経験から気づいたことが記事にされていたものです。
久坂部さんは数多くの医療系著書や小説を書いています。私はまだ読んだことはありませんが、医師であったお父様の最期の様子を題材に書かれた本が気になります。
死を直視すると、死を恐れなくなる
死を受け入れている人は、無闇に病院にかかりませんし、無理に死を遠ざけもしません。それまでの人生に満足し、ときには死を歓迎さえして最期を迎えます。
どうすればそんな心境になれるのか。それは死を直視することだと思います。
無闇に病院にかからないというのは少し極端な気もするけど、死から目を背けるからこそ生じる思い込みが死の恐れになると久坂部さんは書いています。
私は幼少期から臆病な気質だったので、ずっと不安と共に生きてきました。なので、大胆不敵で思いきり生きてる人への憧れがとても大きい。そんな理想の人たちでも死への不安はあるのかしら。実際にはわからないけど、肝が座ってるというイメージを持っています。ああやっぱり羨ましい。
死に時を決めて生きる
久坂部さんは、死に時を考えて生きることを勧めています。
私がお勧めする死に時は60歳です。これは何も60歳で死ねというのではなく、自分の人生は60歳ぐらいで終わるものとして生きるということです。そうしておけば、たとえば70歳で死ぬとしても、「10年得した」と思えるでしょう。死に時は80歳などと思っていると、10年損したと嘆かなければなりません。
さらに、80歳を死に時にしていると、50代になってもまだ30年近くあると油断して、時間を無駄にしてしまう可能性もあります。60歳を死に時にしていると、あと10年しかない、こうしてはいられないと、人生に真剣になるでしょう。だから死に時は早めに設定するに限るのです。
とても納得します。
私も人生を長く設定しては、いざ何をしたら良いか考えると途方に暮れて結局何もしないまま時が流れました。時間を無駄にして生きてきました。
今焦って考えると、何か成し遂げるにはこの先は短かすぎる。
だけど少し考え方が変わってきました。
成し遂げようと考える必要はない、成し遂げたいと思うことが出てきたらいつからでも取り組めばいい。たとえそれが途中までしか出来なくてもそれでもいいじゃない、そんな風に思えたら気持ちは楽になりそうです。
気になることは調べてみる。興味を持ったことはやってみる。そんな小さな行動の積み重ねから始まるのだろう。そんなことが腑に落ちるまで時間がかかりました。
私は50代に突入してやっとのことで自分の人生に真剣に向き合うことになりました。
遅かった…と絶望してしまう時もありますが、それでも時は止まってくれない。ならば、今ここから。
今日も死ぬこと生きることを考えながら、とにかく生きています。
時の経過とは?
あの世があったら嬉しい
ここ最近、起きてる間はずっとネット検索をしていて負のループにはまっている。
死の恐怖を和らげたくて安心材料を探し求めているのだけど、なかなか出会うことはない。
私はあの世とかを信じていないので尚更のこと。生まれ変わりとか死んでも意識は存在し続ける・・・なんて信じることができたらそもそも死の恐怖にはまることもないはずだ。
20代30代の頃の私はスピリチュアル的な本をたくさん読んだせいか、何となく信じてたような気もするし、純粋なだけだったのかもしれない。
今は恐怖感がすべての他の感情を支配してしまってる、そんな感じ。
私は完璧主義な傾向もあるし少し理屈っぽいところもあったりするので、科学的に証拠あることを求めてさまよって迷子になっているのだ。平凡な頭脳しか持たない私には無理も大きい。
現実感が失われていく
頭の中をパンパンにしながら執拗に調べ続けるのは辛いことだけど、今まで意識が向かなかったことを知ることになりメリットを感じることも多い。
あまりにもしつこく断片的な知識が頭脳に流れ込まれ続けていると、なぜか時の経過の感覚が歪んでしまう。記憶や現実感がおかしくなるような感覚だ。
脳内が大騒ぎを起こしていて生活リズムを失ってしまっているからだろう。
その感覚はとても怖いのだけど、そんな中「時の経過」について不思議に思い「老い」について真剣に考えた。現実感を失うと、思いは遠い過去のことか一気に年老いた自分のことへと極端に飛躍するのである。
( "今を大切に"とか "今ここだけに集中する" のように、過去にとらわれず未来を恐れない考え方が健康的な理由が良くわかります…)
浅い考えばかりだし全て中途半端だし答えなんて得られないと思っているのだけど、何となくメモにまとめたものを残しておこうと思う。
- - - 以下、メモ - - -
私の脳から派生する意識は生まれた時からずっと変わらずに私のもの。
歳を重ねるごとに変化(成長)している。
外見は老化するけど脳の機能は変わらない。
私は外見が歳とることに恐怖している。自分が失われるように感じる。
だけど、外見が老化しても自分を認識する力は変わらないはず。
子供の頃や若い頃の記憶は残っているけど、当時の意識はそのまま残っていない。
その時の感情や五感は記憶していてもそのまま同じに再生することは出来ない。
意識については常に今この時しか存在しない。過去のあのときの意識を持った私と今の私は全く違う。あのとき楽しかったり喜んだり悲しかったり苦しんだりした私をそのまま同じようには再現できない。あるのは記憶だけ。
私にとっての連続性は?ついさっきと今なら現実的な連続性を感じる。睡眠から覚める前の私と目覚めたあとの私は全く同じ?1日単位での感覚は現実的に連続性は強いけど、月単位年単位になると変化を感じる。
昨日の記憶の方が過去の記憶より鮮明だけど、意識については瞬間ごとに発生してる。
時を重ねるにつれ私の意識は違ったものになってる。過去と同じ出来事があってもあの当時と同じ感じ方を今の私はしないとわかる。
年老いても私の脳という組織は変わらず、私の体験の仕方や感じ方は違うだけ。
私の意識は変わるけど、どう変わってゆくかは私の考え方感じ方が反映するのではないか?
たくさん体験したり何かを感じてゆくことで脳はもっと熟成されて死を自然に受け入れるほどに成長する?
そう信じて生きるのは間違ってないかもしれない。
- - - 以上 - - -
意味不明な点もあるけど、自分を安心させようと必死なのがよくわかる。
いつか振り返った時、微笑むことが出来るのでしょうか。
目指すのは平気で生きること
「死の恐怖」がやってきた!
3ヶ月ほど前、突然に「死の恐怖」が私を襲った。
それから今に至るまで、その観念から逃れられていない。
こうなったらむしろ、とことん向き合おうとも思っている。
生まれてきたのだから、必ず死ぬ。
”決して逃れることは出来ない” と考えてしまうとゾーっと恐ろしくてたまらない。
多くの人が幼少期に「なぜ人は死ぬの?」と疑問を持ったのではないだろうか。
そんな私も、初めて死の恐怖を抱いたのは9歳か10歳くらいの頃。
「人って必ず死ぬんだよな…息がとまってしまうんだ」って想像し怯えて、時には短い悲鳴をあげたこともある。そうそう、息を止める練習をした覚えもある。死を連想される数字や語呂合わせを避けたりもした。
20歳になったら考えよう。
そんな日々が繰り返されたのだけど、どのくらい続いたのかは覚えていない。
そんな小学生時代のある日の夕方、数人の友達と自転車に乗って遊んでたときのこの瞬間を今でも覚えている。
「死のことは20歳になってから考えよう」、そう決めた。
両親や友達に相談することも出来ずに思い悩んでいた幼い自分がだした解決方法だ。
20歳になる頃には、就職活動やサークル活動をしたり恋愛や失恋などで大忙しで「死」のことを思い出すことはなくなっていた。
ましてや社会人になってからは日々新しいことの連続で刺激的な毎日に忙殺されていたし、自分のやりたい事探しに夢中になっていた。
「死」は自分から遠い遠い彼方にあって「生」のことで一杯に満たされていた。
「死」は自分自身のものではなくて・・
社会人になっていた20代前半に不安神経症と診断されたことがある。
小学生の頃にお預けにしていた「死」の問題よりも「生」の問題の方が上回っていたのはこの頃。将来への希望とそれに矛盾する現実からくる不安にどう対処したら良いのか術がわからなかったのだ。
30代は仕事に一生懸命だったり結婚したり離婚したりと苦しい時期だったものの、「死」は 自分のもではなく、葬儀に参列したときや知人から聞く”別の人のもの" だった。
40代になり、限りなく身近な存在の死を体験した。長年生活を共にした愛猫の死。そして、父親の死。この40代に体験した大きな存在の死はまたいつか書きましょう。
闘病する姿を目の当たりにし、為す術もなく失った。その大きな喪失のあとは何も考えることなく自堕落な生活を過ごしてしまった。
気づいたら50歳になっていた!
そして昨年、50歳の誕生日を迎えたわけだけど無性に ”50歳” という響きが嫌いである。
49歳から50歳では1年の違いだけなのに、どうしてこれほど憎悪してしまうのだろう。
マスメディアによるイメージ戦略に染まりきっているのかもしれない。ここら辺については色々と思うこともあるので、また書いていきたいなと思っている。
まだまだ50歳と捉えられたら良いのだろうけど、私は「もう50歳になってしまった ...‼︎ 」と絶望感が勝ってしまう。
充分に大人である年齢に達した自分にとって、"死を恐怖する50歳の自分" は受け入れたくないものだ。何故いま突然に「いつか必ず死ぬという恐怖感」にとらわれてしまったのだろう。
精神的な幼稚さ、利己的な思考、思うように生きてこなかったツケ…それらが大きいのかもしれない。
いい人生だったと思えるように!
"決して逃れることは出来ない" という認識が最大の恐怖に思うと冒頭に書いたけど、永遠に生きたいわけでもない。「永遠に生きることもできるし死ぬこともできる、好きな方を選べますよ」みたいに、自分に選択権があったらどんなに安らかだろうと思ってしまう。
こんなことを言っても仕方ないのだけど、ようは強制されるのが嫌だからこその思考なのかもしれない。
みずから、「あ〜もう充分いろんなことやった。そろそろ死んでもよいわ。」なんて思えたら人生最高じゃないか。
「いい人生だった!って満足して死ねるために生きよう。」なんて本気で思えたら、それだけで幸せだと、信じている。
現にそういう人々もいるみたいだから、私もそうなれる可能性はあるのかしら。
「平気で生きていく」
それが死の恐怖にとらわれない最良の方法かもしれません。